息子はそれを「無菌パン」と呼んだ
私は「種なしパン」と呼び、息子は「無菌パン」と呼ぶ。同じパンである。厳密に言うと無菌ではないが、作るときに酵母菌を入れないという点では、そう言えなくもない。呼びたいように呼べばいい。だから私は訂正しなかった。
最近、酵母入りのパンと酵母なしのパンの膨らみ方や匂いを比べて、微生物の素晴らしさを感じてもらうというオープンキャンパスの企画があった。その話を聞いて、家のパンを思い出した。
はじまりは妻の入れ忘れである。ホームベーカリーにイーストを入れないまま、機械は最後まで仕事をした。もし、手でこねていたら、オーブンに入れる前に気づいたはずだ。だが、機械では混ぜるところと焼くところが同じ容器の中で行われ、人手を介さず進む。途中で引き返す機会が、そもそも用意されていない。ホームベーカリーならではの出来事だと思う。
食べてみると密度が高く、ういろうのようだった。パンというより別の食べ物だが、悪くない。捨てるのはもったいない。
そこで私は蘊蓄を語った。最後の晩餐のパンは、たしか種なしパンだったと読んだ覚えがある、と。私はクリスチャンではないが、そういうものが実際にあるという事実には惹かれる。
晩餐の話からワインの話になり、ミラノで絵を見たときの話になった。十年以上前、家族三人であの絵を見た。印象に残っているのは絵より息子のことだ。小学一年生で、鳩を見つけては追いかけ回し、妻と私はまわりに気を遣い通しだった。

種なしパンの存在は昔から知っていたが、食べたのはこれがはじめてだった。読んで知っていることと、口に入れて「ういろうみたいだな」と思うことのあいだには距離がある。その距離を詰めたのが、研究でも旅行でもなく家電だった。
これを書くにあたって調べたら、あの蘊蓄は思ったより揺らいでいた。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に描かれているのは平たい種なしパンではなく、ふっくらした発酵パンである。我が家の失敗作のほうが、私の頭にあった「最後の晩餐のパン」に近かったことになる。
しかも、聖書で晩餐を記した箇所は一つではなく、記述が食い違うそうだ。晩餐を、種なしパンを食べる決まりのあるユダヤ教の祭りの食事とするものもあれば、祭りの前日の出来事とするものもある。前日なら、発酵パンでもおかしくない。食い違いは今も残っていて、カトリックでは儀式のパンに酵母なしのものを使い、ロシアやギリシャに広がる正教会では発酵パンを使うらしい。絵の膨らんだパンを後者の記述に沿った選択と見る解釈もあり、時代錯誤と切り捨てるよりそのほうが面白い。「たしか」と語った話が、調べたらもっと不確かだった。
息子はそのパンを気に入った。決め手は実利である。切っておけば勉強中に手軽に食べられ、クズが出ず、腹持ちもいい。聖書もダ・ヴィンチも関係がない。妻は週に数回焼き、ほとんど息子専用のパンになった。失敗が定番に昇格したわけである。
ミラノで見た絵を覚えているかと聞くと、覚えてはいるが、印象に残っているのは絵以外のことらしい。それはそうだろう。私だって、絵より鳩を追いかける息子を覚えている。走り回っていた子が、いつのまにか黙って机に向かい、あのパンをつまんでいる。息子はそれを、今も「無菌パン」と呼んでいる。
