アメリカの銀行口座を、十数年ごしに閉じてきた

到着前の機内から見下ろすシアトルの街並み。中心街から湖を挟んだ奥のエリアには、ワシントン大学や当時暮らしていたアパートも写っており、懐かしい景色を一望できた。

シアトルに着いて最初にしたのは、銀行口座を開くことだった。

2007年の4月1日に日本を出た。日本学術振興会の海外特別研究員は出国日と帰国日が厳密に決まっていて、その初日である。着いたのは夕方だった。翌日、ワシントン大学の研究室に初めて顔を出し、その足で大学の近くの銀行に行って口座を作った。滞在費はトラベラーズチェックで持ち込んでいて、それを窓口でまとめて入れた。英語での生活に慣れる前だったから、手続きには少し手間取った気がする。とにかく、渡米してほぼ最初にやったことがこれだった。

2009年に帰国するとき、その口座は閉じなかった。閉じなかったというより、閉じられなかったというほうが近い。帰国後にも小切手で払うものが残っていたし、残高も向こうで半年は暮らせるくらいは残してあった。オンラインで日本からでも不自由なく使えたから、わざわざ閉じる理由が見当たらなかった。

それから十年以上、口座は日本から普通に使えていた。変化は少しずつ来た。まずログインのたびにメールで番号が送られてきて、それを入力する手順が増えた。ここまではセキュリティというものだろうと思っていた。そのうち番号の送り先が携帯のショートメールか電話の音声通知に変わり、しかもアメリカ国内の番号でないと受け付けなくなった。パスワードを知っている正当な持ち主でも、アメリカの電話番号がなければ入れない。それだけの理由で、私は自分の口座から締め出された。

慌てはしなかった。バンク・オブ・アメリカは名前のとおりアメリカならどこにでもある。次にアメリカ出張があったとき、支店に寄って閉じればいい。そう考えているうちにコロナ禍が来て、予定していた海外出張は消え、次の予定も立たないまま何年も経った。残高はドルのまま向こうに置かれ、私はそれに触れられないままだった。

極めつけは、シアトル出張が決まる数ヶ月前に届いた連絡である。口座に出し入れがないので、期日までに使用がなければお金は没収する、という。正確には没収ではない。放置された口座は州に引き渡され、州が預かり、あとから持ち主が請求できる。そういう制度だということは私も知っていた。ただ、銀行が相手なら支店に出向けば済む話が、州が相手になったら日本から何をどうすればいいのか。書類に公証を求められたら、そのために大使館まで出向くのか。手続きの入口で「アメリカ国内の電話番号」の同類が待っていないという保証もない。制度上は取り返せるらしい、という程度の話を当てにする気にはなれなかった。州に渡ったら実質あきらめるしかないだろう、というのが正直な感覚だった。

オンラインには入れないので、電話をかけた。ATMで出すか入れるかすればよい、というようなことを言われた。カードはとうに有効期限が切れている。では口座を閉じて残高を送ってもらえるかと聞くと、それは店頭に来てもらう必要がある、というようなことを言われた。「ようなこと」と書くのは英語の電話だからで、聞き間違えているかもしれないという不安がずっとつきまとう。金の話で聞き間違いはしたくない。ずいぶんなストレスだった。

結局、日本からその口座に少額をドル建てで送金した。出し入れの実績を作れば、期日は先送りされる。それで急場はしのげたが、数千円を動かすのに手数料がやけにかかった。

そして出張のとき、ワシントン大学の近くの、あの口座を開いた支店に立ち寄った。十数年ぶりの窓口で、今度は閉じたいと告げる。対面なら話は早かった。残高はドル建ての小切手にしてもらい、帰国後、無事にドル建てのまま日本の銀行に移せた。トラベラーズチェックで始まった口座が小切手で終わったことになる。けっきょく、窓口と紙がいちばん確実だった。

ここで為替の話になる。私が留学していた頃、1ドルはたしか110円くらいだった。小切手を持ち帰った頃には160円前後になっていた。あのドルは寝かせているあいだに、円で見れば5割方増えていたことになる。面倒くさがって口座を放置し、締め出され、脅され、電話で消耗し、手数料まで払った挙句、結果だけ見れば、円をドルに換えて長期保有していたことになる。それだけ聞けば見識のある資産運用である。意図した部分は一つもない。

めでたしめでたし、と書いてよいのかは少し迷う。次も同じ手が通じるとは、私も思っていない。

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